東京ロリポップ午前二時

文字があり 読むと時間が 無駄になる

夢の話 #1 夢の中で死んだ時の話

まえがき

数日前、夢の中で死んだ。

死因は定かではないが、おそらく失血死だったのだと思う。

そこに至る経緯は思い出せないものの、「あ、これ死んだな…」という直感と、「死ぬ感覚」が妙なリアリティを持っていたので、まぁちょっと書き残しておこうかと思った次第である。

いや、死んだことないし…

とは言え実際に死んだことがないので、この感覚が実際に死ぬ時の感覚とどれくらい似ているのか、あるいは全く別物なのかはわからない。まぁそれは後日のお楽しみということで、答え合わせの日を待つしかないのかもしれない。

状況と感覚

シチュエーションとしては、街中、路上で死んだ。道の両サイドに露店が並んでいた気がするので、マーケットのような場所だったのかもしれない(なんとなくパリに行った時に通ったマーケットっぽかった)。

周りは騒がしく、自分が倒れていてもあまり注目されていなかったように思う。

何故倒れたのかは思い出せないが、おそらく何か大きな事件がすぐそばで起こっていて、それに比べれば人が一人倒れていたところで…ということだったのだろう。

こうして考えてみると、そこにいた「無関心な人々」は自分の人間観みたいなものを多分に反映しているような気がする。…もうちょっと関心を持ってくれてもいいのでは?

 

さて、はっきりした記憶は倒れた直後から始まる。

最初に気づいたのは身体、特に手足の重さで、そこだけ水の中に入っているかのようになかなか動いてくれなかった。頭では起き上がろうと考えているのだが、手足の動きがそれについてこないのである。

仰向けに転がった状態から身体を捻って上体を起こそうとしても、支えとなる腕はゆったりとしか動かず、体感では10秒ほどの間そうやってもがいていたと記憶している。まるで身体の中心と先端が異なる時間の速さで動いているような気持ち悪さ。だがこの段階では、まだ起き上がる意志が残っていた…と思う。

 

そうこうしている内に涅槃仏のような体勢にまで辿り着いたのだが、ここで頭に異変が起こる。

視界がぼやけ始め、騒がしかったはずの周囲の音は次第に遠のいていく。急に頭が重くなり、腕はその重みに耐えきれない。再び頭は地面に落とされ、土に根が張られたようにもう動かない。

 

ここでようやく「あ、これ死んだな…」という発想が出てくる。

面白いもので(まぁ夢の中だからなのかもしれないけれども)、いざ死が直感されると「死にたくない」とか「なんとかしなきゃ」ではなく、今まさに死のうとしている自分の身体感覚に注意が向かっていって、普段よりも繊細に全身の状態を内観できるようになる。

まるでそれらと触れている全身の細胞一つ一つが感覚器官になって膨大なデータを脳に送っているのではと思うほど、脚に感じる風の強弱、腕に当たる砂一粒一粒の硬さ、そういったものがかつて経験したことのないような細かさで伝わってきて、ある種の心地よさが脳に広がっていく。視覚と聴覚はどんどん鈍くなっていくのに、触覚だけが先鋭化していく。

 

そしてその情報量が膨れ上がって限界に達した時、遂に意識が薄れていく。

最初はつま先から、足首を通ってふくらはぎを抜けて、膝で屈折し、大腿骨を伝って腰で背骨に集まって、肋骨の一本一本をなぞるように、そして肩から素早く指先へと、冷たさが広がっていく。

一度その冷気を感じた部位には二度と意識を向けることができず、大量の感覚を処理していたはずの脳からは次第にその情報が消えていって、代わりにどんどん自分の存在が追いやられていくような、奇妙な感覚が膨れ上がっていく。

遂に首から上だけがこの世界に残される。喧騒はもう聞こえず、視界はかろうじて周囲にあったものの輪郭だけを捉えている。顎、口、鼻を通り抜けた死が目に差し掛かる時、一瞬だけ冷気の進行が止まって、そして、死ぬ。

死の瞬間

ここまで夢の中で自分に起こったことを思い出して書いてみたが、この夢は死の瞬間に視点が切り替わってしまった。

夢の中で自分が死んだ(と思われる)瞬間、視点は第三者のものに切り替わり、外側から死んだ自分を眺めていたのである。なので、厳密には死んだ瞬間を主観として経験したわけではないし、死後の感覚(?)を夢の中で経験したわけでもない。

まぁ、自分の死の瞬間は原理的に経験できないだろうし、霊的なものを想定しないならば死後の感覚も実際には味わえないのだから、もし視点が切り替わらなかったとしてもそれは完全なフィクションなのだろうけれど、それでもちょっと勿体なかったなぁなどと思う。どうせ夢なら経験できないことを経験したいし。

 

こうして書き出してみると、まぁ一般的な死のイメージにかなり引きづられた形で死を経験したのかなぁという感じがする。特に冷たさがどんどん迫ってくるというのは、いかにもと言ったところか。

実際に人が死ぬ瞬間を目前で見たことがあるけれども、心臓の動きと呼吸が止まって対光反射が起こらなくなり、医者が「ご臨終です」と告げても、人はすぐに冷たくなるわけではない(当然といえば当然)。むしろしばらくは体温が残っているし、握られた手の向こう側には意志が残っていて力を込めているのではないかという錯覚すら覚えた。

あれからもう何年も経つけれども、鮮烈に覚えているこうした経験がありながら、夢の中とは言え自分の死が凡庸なイメージに囚われているというのは、まだ自分の死に対してリアリティを感じていないということなのかもしれない。それが悪いことなのかどうかは別にして。

後日談

この夢を見てから数日後、母と電話していた時にふとこの夢の話をしたところ、母はしょっちゅう自分が死ぬ夢を見るとのことだった。ぜひその時の感覚について訊いてみたいところではあるが、実の親に対してその死の夢を詳しく尋ねるのはどうにも嫌な感じがしないでもない。

あと、こういう話を知人にすると絶対に「(頭とか心)大丈夫?」という反応をされるのだが、みんなだってこういう夢を見ることくらいあるでしょ?ないの?